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11.04.28. 懺悔と自戒する記事 ※私事です

 私がナルシストであることについて。

 今私が何を考えているのかを書きます。
 懺悔と自戒が、必要なことかどうかはわかりません。誰にでも必要なものじゃないはずです。でも私は、私にはそれが必要だと思った。
 また、不特定多数に向けて公開されている場所で、懺悔と自戒をすることを、これで最後にします。

 わからないことだらけです。わかる部分だけ書きました。

 ネガティブ気味ですしほんっっっっとうに私事なので、私が一年前にやってたTwitterのことや過去やってきたことをご存知で、なおかつ不満があるようでしたら、読んでみてください。

 この記事はなるべく編集しないつもりですが、内容を変えずに読みやすく修正することはあるかもしれません。そのときはお知らせします。



 一年前にTwitterをやめたのは一身上の都合によります。自分からはじめたことを自分からやめることを、毎回申し訳なく思っています。
 以前Twitterをやっていたときは、本アカウントのほかにヘパイスのbotを作ってたのですが(@hepa_botです。現在のヘパイスbotとは関係ありません)、それら両方を続けるのが途中から苦しくなったのです。bot制作のせいなのではなく、交流や制作のためにTLを追ったり、話したり、見たりすることが苦しくなったのです。

 お断りしておきますが、他人と交流することそのものが苦しかったのであり、誰かに苦しめられたわけでも、誰かが嫌いになったわけでもありません。botを通して誰かを励ますのが嫌になったわけでもないです。断じて違います。

 botに関しては、作っている途中から、多くの人を巻き込んでしまったこと(ちょっとしたイベントを行ったり)や、すべての人を楽しませられなかったこと、二次創作のbotであるにもかかわらず自分の趣味を盛り込みすぎたことを反省しています。
 多くの人を巻き込んだことについてですが、それを「やらなければよかった」と後悔しているわけではなく、「もっと迷惑をかけずに、ああいうことができたんじゃないか」という反省です。 
 botを通していろいろな人と交流できたことや、誰かを楽しませるためにはどうすればいいか考えて協力を申し出、そして協力していただけたこと、botを利用して楽しんでくださった方がいること、botを作るためにあれこれ考えたことは、貴重な財産になりました。それらに悪いところはひとつもなかった。これも間違いないです。

 私は多くの人の言葉を知りたかったし、多くの人の中に加わりたかったです。趣味が合う人の話も、合わない人の話も、ぜんぶ聞きたかった。
 しかし、そうするために必要だった責任感について、私はあまりにも無頓着でした。すべてを聞く能力を、私は持っていなかったのです。また、自分の発言を正しいと信じ込む力もなかったのに、発言を続けました。
 とても失礼なことをしてきました。
 また、私には時間が有り余っていましたから、いつでもつぶやきにふれることが出来ました。また、今年(2011年)に新しいことをはじめると当時から決めていました(それが大学受験である、というところまでは決めていませんでしたが)。これも原因のうちの一つでしたが、本当の原因ではないと考えます。本当の原因とは、上にあるように、私の責任に対する無頓着さにあります。

 一身上の都合とはなんなのか、そしてそれが失礼であるとは何か。それはこういうわけです。
 あらゆるやりとりの中で(botを通したやりとりに関してもです)私はあらゆるやりとりに自分で勝手に自分の嫌いな味のソースをふりかけてそれを食べていた。具体的には、すべてのつぶやきに、人に対する強い悪意や良心などの理由があるのだと思っていました。
 つぶやきはいつでも生まれ、いつでもあり、いつでも増える。それをぜんっぶ食べました。そして喉がつまったので食べるのをやめました。
 私がこれを失礼であると考えるのは、やりとりの中に含まれていた本来の意味を無視して、自分の都合のいいようにそれを可変し、味わったためです。
 自分を苦しめるために何かを可変することは、自分を慰めるために何かを可変することと同じです。
 可変することが普通になっていたから、すべての発言には目的があると思い込むようになりました。自分の発言に対してもです。本来、何の意味も意図もなくした自分の発言に対して、「自分にはこういう無意識な意図があってこんなことを言ったんじゃないか?」と疑うようになりました。
 こうして私は何もかもが嫌になりました。自滅しました。これが、「失礼な一身上の都合」の中身です。

 これを防ぐにはどうすればよかったか。
 まず、自分が、何をどこまで聞けるのかを知ること。
 相手が何を思っているかを、こちらで決め付けないこと。その上、やりとりに含まれる本当の意味を、何かを付加するという過程を用いずわかること。
 Twitterの発言のほとんどは、不特定多数の誰かに向けたものであり、個人に対する(すくなくとも)悪意に満ちているわけがないこと。
 自分の発言に自信をもつこと。つまり、自分の発言に対して、何を話したいのかを知っておくことや(なんの意図もないことも含める)、どんな返事が返ってくるかを事前に考えることや、返事を期待しないことや、返事を受け入れる準備をすること。
 そしてそれを実行に移すことです。
 これらを無視して、「好きな人とだけ話して好きな発言だけ集めていればいいや、どうなってもいい、なにもかも好きにやる」と考えるのは、やっぱり、すべての発言の意味を無視することと同じです。
 また、私がとった「疲れたからやめる」という行動は、それをはるかに凌ぐ失礼でした。

 まとめると……。
 私は自分の都合で自分を苦しめました。その理由は、すべての人々が自分の態度や発言を取り繕っている、取り繕う必要があると思い込んだことにある。もう一つ、私が自分の発言に自信を持てていなかったことにもある。そして私は思い込みに耐えられなくなってTwitterをやめた。それ(思い込んだことと、「やめる」という結果を選んだこと)はとても失礼なことであり、私はそれを反省しています。
 そしてこれからのことをこう考えます。
 私は自らを改善する。主に、自信や責任に関して。考えるだけではなく実行する。そして、私がかけた迷惑に対する報いを受けたとき、それを拒否しない。

 もしかすれば、失敗を犯した場所へ戻らないことが、正しい償いであるかもしれないです。今回こうしてここに私情を書くこと自体が間違ってるかも。
 しかし、私は今この問題の外にこれ以上出ることが出来ません。だから、間違っているかどうかがわかりません。
 また一年たったころ、わかるかもしれませんから、そのときまでこの記事は残しておくことにします。間違っていることがわかったら、その時その時にすこしずつ修正していきます。
 また、ここに書いたことをちゃんと実行できているかどうかも、確かめていきます。正直なところ、すべてをいきなり実行することはまず無理でしょう。でも、やっていきます。

 Twitterに限ったことではなく、私はあらゆる失礼を犯してきましたが、それらについてもやはり、自分のしてきたことを認知し、それに対する報いを拒絶しないことを主に実行していくつもりです。
 あらゆる失礼に対して、そのとき関わった場所や関わった方々一人一人に謝罪して回ることは……これもやはり、したほうがいいのか悪いのかわからないです。
「これこれこういう失敗をしたよな、俺は気分を害した、他は知らんが俺には謝罪しろ」と言われれば、します。

 長くなってしまいましたが、この記事を自分に対する戒めとさせていただきます。
 ここに記事を書いたのは、インターネットという場には私が過去してきた失敗の痕跡が残りつづけるのだから、同じように記事を残しておくことで、戒めになると考えたからです。
 読んでくださってありがとうございました。

 そもそも若い時の出来事にたくさんの責任を感じるってこと自体が間違ってるかもしれないですけど、その点については今回は触れてません。まだわかりませんが、また考えます。
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