10.09.02 ヘブンズタイムといきどまり(前編)
ウラゼウスのおいしいところをつまみぐいしようと思って書き始めた小説です。
アフロディとヘラとアルテミスがでてきます。
ここでこう盛り上げようとか、ここは静かにしようとか、今までの五倍くらい、意識をもって書きました。
今まで書いた小説のことを思うと……顔から火が出ます……。ちょっとでもおもしろいものが書けるようになっていればいいなと思っています。
アフロディとヘラとアルテミスがでてきます。
ここでこう盛り上げようとか、ここは静かにしようとか、今までの五倍くらい、意識をもって書きました。
今まで書いた小説のことを思うと……顔から火が出ます……。ちょっとでもおもしろいものが書けるようになっていればいいなと思っています。
朝がおとずれて間もないころのことです。
太陽のひかりは雲をつきやぶり、町をひろくてらしていました。
黒い服に身をつつんだ少年が、砂だらけの地面のまんなかで、足をとめました。両膝に手をつき、肩で息をします。みだれた金の髪が腕にからまります。胸の底からしぼりだされる空気が、あざだらけの体をきしませました。額やこめかみから流れる汗がぼたぼたと落ちて、砂の上にしみをつくっています。
突然、足音がひびきわたりました。短くはきだされた息が、止まります。
少年はとっさに身をひるがえしました。すべる足が、砂を低く舞い上げます。背後にせまっていた影が右腕をふりあげました。思わず身をよじると、こぶしが頬をかすめ、空をきりました。
視界がゆらぎました。バランスをくずし、背中から地面に倒れます。全身のあざが強く痛みました。
少年の目の前には、彼とおなじ顔をしたおなじ背丈の少年が、その金髪と白い服のすそを風になびかせながら、立っていました。かみしめたくちびるから、熱い息がこぼれています。
いきおいよくのばされた手が黒い服の胸ぐらをつかみ、倒れた体をひっぱりあげました。ほのおをたたえた目が、今にも息たえてしまいそうな相手をにらみつけています。
追いつめられた少年は目をつぶりました。かぼそい呼吸がかわいたのどからもれ、泣き声のような音をたてました。
砂ぼこりが吹きこみ、ふたりの髪が羽のようにひろがります。雲のうすい影が落ちました。汗のにおいが砂のにおいとまざり、鼻をつきました。眠りからさめていない町が、しんとたたずんでいます。
木の葉から朝つゆが落ちる音すら、聞こえそそうになったときです。
力なく下がっていた黒服の少年の右腕が、ぴくりとゆれました。気づかないほうがとうぜんというくらい、わずかなうごきでした。
その手はおそろしく時間をかけて持ち上げられました。腰の高さから胸の高さへ、胸の高さから肩の高さへ。音も風もともなわないうごきです。汗のしずくがひじへ流れ、ひとつぶだけ落ち、砂にしみこみました。
指が、やはりおそろしく時間をかけて、一本ずつのばされます。爪のしめった光沢がひろがります。
やがてそれは、彼のえり元をつかむ手へそえられました。
一部始終を見つめていた白服の少年の眉が、くもりました。しかしそのくもりは、一瞬のまばたきのあと、すぐにはれました。
胸ぐらをつかむ手へ力をこめます。もう片方の手をにぎりしめます。
その気配を感じたのか、黒い服の少年が、まつげをふるわせながら、うっすらと目を開きました。
こぶしがふりあげられます。太陽にかさなった手が、暗く染まっています。
もう彼には、顔をかばうための気力すらのこっていませんでした。なんとか開いているまぶたが、しびれてくるほどでした。
青い空がかがやいています。見えるものすべてがかすんでいきます。
ぼやける視界のまんなかに、腕がいきおいよく打ちおろされました。
―――――――――――――
午前の町にはじめじめした空気と音があふれていました。
灰色のビルのあいだから、低い空がのぞいています。規則ただしくならぶ信号機と電柱が、にぶく光るアスファルトを見下ろしています。眠そうな風が雲のにおいをはこんできました。
町は、ゆれる人の海にしずんでいました。ひろい流れでした。そのとなりには、車の列が、めざめるのをわすれたヘビのようにのびています。
人ごみをかきわけながら走る少年がいます。背にひろがりたゆたう金色の髪は、太陽にまけじとひらめき、道路をけるのにあわせてしゃらしゃらなりました。
交差点の反対側で、青信号が点滅しています。
人の波はたえません。もがけばもがくほど、体が押し戻されてしまいます。
ぶあつい人ごみをやっとの思いでぬけ、横断歩道へとびだした瞬間です。
ついに信号がかわりました。
靴の底がぎゅっと音をたて、足はなんとか止まりました。あわてて歩道へと飛びのきます。目と鼻の先を車がかすめていきました。思わず信号機を見上げます。口をついてでたのは、ながいためいきでした。
しけた空気に肌はしめり、ほてる頬やあごのあたりを汗が流れ落ちました。バスが目の前を横ぎります。ガスくさい風がのどをくすぐり、小さなせきがでました。
人々の肌が、強いひかりにさらされかがやいています。少年はやわらかい手の甲で汗をていねいにぬぐいました。はりついた髪の毛が耳のつけねにまとわりつきます。
信号が青にかわるのとおなじく、彼はかけだしました。
交差点にはもう人しかありませんでした。信号待ちをしている車のまわりにまで、波はひろがりました。道路の上で、おなじ色をした靴がはねる様子は、まるでボートから見たとび魚の群れのようでした。
アスファルトの上にひかれた白いラインが、たくさんの足の下で、じっと息をひそめ横たわっています。それはたしかに光っていました。そのくすんだ白色の内側にひめられたかがやきが、靴にふみつけられるたび、少しずつもれているのでした。
それは見ようとすればだれにでも見えるものです。少年も、そのまぶしさに気づいていました。
「僕にはまぶしくうつらない」
と、こころの中でつぶやきます。
「どんなひかりを見ても僕の目はくらまない」
走りながら、首を小さく振ります。
「まぶしいものか」
太陽はあきることなく地面をてらしています。ビルの下、電柱や街灯のあいだをあるく人々と、そこをかける少年の影を濃く重くしていきます。
彼は先ほどまで病院にいました。
うすい色をした空に、太陽が顔をだしたばかりのことです。
受付の人に見送られてロビーをでると、二枚のドアがやれやれといったように閉じました。
駐車場には、朝だというのに、たくさんの車が止まっていました。持ち主はみんなこの上の階で眠っているのです。
少年は、ベッドで眠っていたわけではありません。だれもめざめていない朝のうちに、こっそりここによったのです。
左右に目をおよがせ、車をながめます。黒や灰色や白の車がしんとだまったまま主人のかえりをまっています。はじのほうには救急車も見えます。出入り口のところには交番をひとまわり小さくしたような建物がありましたが、そこに車の出入りをみはる目はありませんでした。
奥行きのないしめり気が頬をなでています。
ふと、車の屋根のあたりをさまよっていた視線が、あるところで止まりました。
そこには大きな木がありました。みずみずしい葉が日のひかりにすかされ、その下にしげる芝生をさらに青く染めています。そばには二台の車が身をよせあうように止まっていました。
その影で、きらりとひるがえるように光るものがありました。
ハトやカラスが舞い上がったのかもしれないと空をあおいでも、鳥の姿は見あたりません。いそいであたりを見まわしてみましたが、駐車場にも芝生の上にも人はいません。芝はかおってきそうなほどの緑をたたえていましたが、それがともなっているひかりは、目にささるものではありません。
ガラスの破片かなにかが木の根元に落ちていて、それが偶然日のおかげで光ったのかもしれない。
そう考えて、彼は木をながめるのをやめました。そこでうごくものはけっきょく、ゆれる枝葉のほかにありませんでした。
駐車場をつっきって歩くと、入り口のまん前に、あざやかな赤色レンガでできた歩道が、景色をきりさくように横たわっていました。ねずみ色の町とはつりあわない、目をみはるような赤色です。そこからのびている横断歩道のラインは、ところどころすすけていて、アスファルトやガスのにおいとよくなじんでいました。その先にはやはりまっ赤な歩道がありましたが、こちらはとおいせいか、ややくすんで見えます。道に面したいくつかの店も、やはりどこかさびしい色をしていました。コンビニだけははなやかな彩りの看板をかかげていて、客のいない店内をてらすあかるい光が、歩道にもれていました。レジのとなりでは、まがった名札をつけた店員が、雑誌のページをせっせとめくっています。
向こう岸の信号機が、赤から青にかわりました。車道では車がふるえながら信号がかわるのをまっています。
ガードレールのあたりをさまよっていた彼の目が、にわかにみはられました。よく知る顔をみつけたのです。
「おはようございます」
向こうから歩いてきたその人にむかって、そっと頭を下げます。
するどくこちらをみつめていた緑の瞳に、あかりがともりました。
「おはよう」
ひたいの傷をなぞる赤い髪は、着ている黒い服のせいでしょうか、息をのむくらいあざやかな色をたたえ、ゆれています。
「散歩ですか、ヘラ先輩。まだ朝になったばかりなのに」
「ああ」
彼がこちらの歩道にたどりついたとき、点滅していた信号が思いだしたかのように赤くかわりました。車がうごきだし、エンジンの音がひびきます。
「朝はいいな」
ヘラは顔をほころばせました。
とうめいな空気が胸いっぱいにしみこみます。朝のうわずみをいっぱいふくんだ、きつくあまいにおいがする風がふいています。
「アフロディ、おまえも、朝が好きだったんだな」
はっきりした言いかたでした。アフロディからはずれた彼の視線が宙に舞いました。アフロディもその先を目で追いながら、ええそうですとうなずきました。
「先輩はこちらに用事があったんですね」
「そういうところだ」
「では、また学校で」
あいまいにうなずき、すいと体をそむけます。髪が、にげるようにひるがえります。
しかし、ヘラは返事もせず目をふせました。その首はかすかに横にふられたようでした。
「まだ早いだろ、練習には」
アフロディはそれ以上歩くことができませんでした。わずかにゆれたズボンのすそが、靴下をこすり、息をのむような音をたてました。
ヘラはわずかなあいだ口をかたくむすんでいました。
すぐにくちびるはゆるめられ、ほそい息がこぼれました。目をあわせなくても、瞳の奥であかりがゆらゆらゆれているのがわかります。それは歩道のすみにおかれた花や生垣をながめるためではなかったでしょう。アフロディも、じっと花と植木ばちのあたりを見ていました。
やがてヘラがゆるやかに歩きだしました。もうその目にくもりはありません。病院の入り口には目もくれず、歩道にしかれたレンガのかたさをひとつひとつたしかめるようにまっすぐ進んでいきます。アフロディは横目でその背をとらえていましたが、やがて思いなおしたように彼のあとを追いはじめました。
太陽のかがやきは、うすい雲をつきぬけて、イチョウの枝のあいだからあたたかく差し込んでいます。
彼らの歩みはながれる時間よりずっと遅いものでした。
「まぶしい朝だな」
と、ヘラが言います。
「まぶしい?」
「目ざめたばかりだからかもしれない」
ヘラが、ズボンのポケットであそばせていた右手を、自分の目のうえへかざしました。朝日が指のすきまからあふれ、苦しげにほそめられた瞳へ落ちています。
その後ろで、アフロディが顔をこわばらせたまま太陽をにらんでいました。目に熱い痛みがにじむことを、みじんもいとわない様子でした。
車のとおりはなく、聞こえるのは葉のこすれる音と自分たちの足音だけです。男の人が、郵便ポストから、封筒がつまったおおきなふくろをとりだしています。
ふたりの頭の中には、たくさんの記憶がわき上がっていました。過去からふきだす洪水にのまれまいとして、ふたりはだまりました。
思い出は行き先なくふくらみ、いまにもこころの中から現実へとこぼれ落ちてしまいそうです。
やがて道は交差点にさしかかりました。十字にまじわるアスファルトに、ねずみ色の横断歩道が傷のようにうかんでいました。二本の歩道は左右直角にひろがっていました。足元の赤レンガは、左手へ、病院の外壁をたどるようにつづいています。
横断歩道の手前で左に折れたとき、青信号をこえた自転車が後ろから一台だけやってきて、彼らに追いつき、追いこしていきました。ため息のような風がながれました。
アフロディはなにかをたちきるように言いました。
「僕はもう一生分のまちがいをおかしてしまった」
言うにつれ、のこっていた戸惑いがおさえこまれていきます。
ヘラが眉をひそめました。
「でも俺たちは気づけたじゃないか」
「まちがいに気づくだけで、ゆるされるなんて」
ただしい音色を持った声でした。
「ありえないことじゃないですか」
ですが、その強さとは裏腹に、足どりは見る見るうちに遅くなりました。
ふいに、しずかな声がしました。
「やめろ」
ヘラはどんどん足を速めていました。なにかを見つけようとするように、目をこらしています。
「俺たちはただしくなかったかもしれない。だが」
アフロディの赤い目がふるえます。
ヘラは足を進めながら言いました。
「すべてがまちがっていたかどうかは、だれにもわからないはずだ」
けっして強くはない声です。たしかな温度が、その裏に隠れていました。
アフロディはうつむきながら首を振ることしかできませんでした。開きかけたくちびるは、かたちにならない言葉に、かわかされていきました。
かつて神のアクアというものがありました。
それはただしくない力でした。
彼らそれを知ることとなりました。
知りながら、いまどうすればいいのか、わかっていなかったのです。
「それでも」
アフロディが、やっと口を開きました。
「それでも僕は、まちがったんだと思います」
声色に、さっきまでのつきはなすようないきおいはありません。
さびしい風とともに舞い上がったほこりが道路のほうへ運ばれていきます。閉じたシャッターを、張り紙がぱたぱたたたいています。
「もう二度とのぞきこめない、ふかいところに、ぜんぶを捨ててしまえればいいのに」
足を止めないよう、こころの中だけでつぶやいたはずでした。
「俺も、か」
目の前のその影が、すいと後ろへ流れていきました。ヘラは足を止めていました。おもわず、彼を追いこしたところで立ちどまります。
「俺たちもぜんぶまちがっていたと言うことか」
アフロディははっと息をのみました。顔から血の気がひいていきます。刃より冷たい目が、こちらをにらんでいるのがわかります。
つきさす視線からにげるようにかぶりを振ります。手がとどくほど近くにいる彼がどんな顔をしていたのか、もうたしかめることができませんでした。
コンクリートのにおいと、午前のひざしがもどってきます。
信号機がかわるのを待ちわびていた、車のうなり声がひびきわたります。先ほどまできえていた町のざわめきが、いきおいよくおしよせてきます。
アフロディは顔をゆがめました。わずかなあいだでしたが、自分の足が止まっていたことを、うとましく思わずにはいられないのでした。
一度だけ、ガスのにおいを胸いっぱいにすいこんで、はきだしました。むせるようなにおいが、自分が喧騒の中にもどってきたことをたしかめさせてくれるようでした。
ゆれる髪の感触が、あせる気持ちをかきたてます。はく息がかたちになるまえに、足がどんどん前へのばされます。
ころがるように角をまがり、やっとバス停のあるとおりへたどりついたときです。
バスはもう三つ向こうの信号機の前で、待ちかねたように角をまがっていきました。
アフロディはぜえぜえ息をつきながらそれをみおくりました。汗をすいこんだブラウスが、胸やせなかのあたりにべっとりくっついています。頬からあごへ流れたしずくが地面へぽたぽた落ち、ばらされた髪の毛は水につけたばかりの古いハケのように首をちくちくさしています。
バス停の横に、置物のようにならんでいた客人たちが、目のはしで彼を見ていました。
風がきえました。鼻をつく汗のにおいに、顔をしかめます。呼吸は荒いままです。都会の微熱とはべつの熱さが体をうすくつつんでいます。
のがれるように腕時計をにらみます。文字盤をみつめてから時間を確認できるまで、だいぶかかりました。
次のバスはもうすぐくるようです。
ですが、彼はまっていられませんでした。目の前をよこぎる人の影や、世界のはしからはしまでつづいていそうな車の列を見ることすら、わずらわしいのでした。
胸の中でくすぶる熱を、息といっしょにはきだします。肺からさいごの空気がおしだされたとき、彼ははじけるように走りだしました。背につきささる視線が、宙にばらけていきます。
いったいなにが彼をあせらせていたのでしょう。
全力で走っていても、車はおかまいなしに彼を追いこしていきます。いま彼とすれちがった車は、あの駐車場でねむっていたものでしょうか?
太陽もたかくのぼり、空の色がはっきりしてきました。流れる雲と電線が、いっぱいの窓にほんものよりみずみずしくうつっています。建物の中でうごめく人々は、まるで雲の海をおよいでいるようでした。人のにおいと町のにおいがまざり、風とともにぬるくよどみ、うずまきます。
小さな路地に気づいたのはそうした午前のはじまる瞬間のことでした。
ビルにかこまれ、さびしく建っている住宅のあいだに、暗くせまいすきまがありました。もし足が止まらなければ、そこに道があることには気づけなかったでしょう。呼吸をなんとかなだめると、タバコのけむりや汗のかおりがかすむくらい、いやなこもったにおいが鼻をつきました。歩く人はこのにおいをすわないために足を速めているのではないか、と思えるほどです。
腕をのばすよりも狭く向かいあった壁に、がっちりしめられた窓がぽつぽつとついています。いつ捨てられたのかわからないゴミが、無残に散らかされていました。少しそちらへ近づいて見ると、虫の羽音が、わーんとひびきました。
路地の入り口にはまっ黒なしめった泥が散っていました。だれかが出入りしたのでしょう、靴のあとがいくつかのこっています。
さびたフェンスをすかして、空が白くかがやいていました。
だれも知らない道があったことにおどろくひまもありません。
彼はすぐにその路地へ入りました。
地面はぬかるんでいてやわらかく、足跡ものこりません。ゴミをはきだしているビニールぶくろを越えるとき、いやなにおいがたちこめました。こんな泥沼のような地面にたおれるわけにはいきません。足を思い切りのばすたび、ぴちゃぴちゃはねる土がズボンのすそをぬらしました。
ゆく手を低いフェンスがさえぎっています。むりやりそれを乗りこえたとき、ちぎれた針金が足をひっかきました。彼の足は痛みには止まりませんでした。
町のざわめきがなくなりました。泥にまみれた足がしびれ、ひざが痛みはじめてきたころです。
ふと目の前で、なにかがゆれました。
こんどこそ鳥の影かと思いましたが、ちがいます。
羽が風をきる音ではなく、人の走る音が、すぐそばでしたのです。
音のするほうを見ると、すぐそこの左手にとつぜん、ほそい道の入り口がありました。
いえ、道と言うには、あまりにおざなりな道でした。コンクリートの壁と壁のあいだに、人が腕をまげてやっととおれるくらいのすきまがあるのです。パイプがはりめぐらされ、雨もふせげないひさしがとびだしている下に、色のはげたカンやビニールぶくろが、黒い地面へしずむようにして捨てられています。
その向こうに、きらきらかがやくものがありました。
それはたしかに人でした。
金色がかがやく波が、とおざかっていくその人の背に流れていました。
耳に聞こえていたわずかな音が、しんときえてなくなりました。あがっていた息も、破裂しそうになっていた心臓も、いきおいをなくしていきます。さっきまであふれていたゴミのにおいすらひいていきます。自分の体がひえるのが手にとるようにわかりました。
金色のひかりはずんずん小さくなり、また横道へとはいっていきます。
アフロディはぼうぜんと立ちつくしておりました。
だれもいない小さな路地を、自分とそっくりなだれかが走り去っていくところを見て、おどろかずにいられるものでしょうか。自分のまちがいやおぞましい思いを、思いがけず知ってしまったときのようです。
首の後ろがざわざわし、心臓がふたたびなりはじめます。
のどのかわきも、痛みのことも、苦しいこともわすれ、彼はふたたびかけだしました。
さいわい、あっと言うまに、表通りにでることができました。いきかう人の向こうに、バス停が見えます。いつもバスの中からながめていた駅です。
バスはすぐにきました。
中は見ただけで暑くなってしまいそうなバスへ、彼はなんのまよいもなくとびのりました。泥だらけの靴やズボンを見て、顔をゆがめる人はいません。
発射のゆれに身を任せながら、窓ごしに路地をながめます。
さっきのだれかが、そこまで自分をおいかけてきていないかと、道の入り口に目を走らせましたが、家のあいだにも人ごみの中にもそれらしき影はありません。歩道をゆく人たちは、その路地に気づいてさえいないようです。
まよいがみせた、まぼろしだったのでしょうか。
路地はどんどんとおざかっていきます。運転手が、向かい側からきたバスに手をあげています。
頭の中に、かろやかにひるがえる髪のうごきだけがのこっています。
その日の練習はすぐにおわりました。あたらしいカーテンのすきまにのぞくまるい夕日が、コップの影をテーブルへ落としています。
みんなが部室をでていく中、アフロディは、ひとりで部屋のすみに立っていました。靴をはきかようとしたときに、夕日にてらされた自分の影が目のはしにうつり、顔をそらせなくなったのです。まっ黒な自分が、くもりなくみがかれた白い壁にのび、こちらを見おろしています。
それを見ていると、にげるように去っていたあの後ろすがたを思いださずにはいられないのでした。
「あの」
鈴をならしたようなかすかな声がして、アフロディはいきおいよく振り向きました。扉の前に立つアルテミスの、荷物をもつ右手がふるえました。
部屋にふたりがのこったのは、偶然ではなかったでしょう。
アフロディも、目で「なにか用かい」とかたります。
「その」
仮面の向こうからもれる声が、雪どけよりもゆっくりつむがれます。
「なにかあったのなら、教えてください」
「なぜ?」
「その傷は、いつ、ついたんです」
彼の左手の人差し指がアフロディの足を指し示しました。うつくしい桃色の傷が、右足の外側、ひざの下からふくらはぎのまん中まではしっていました。傷はむきだしになって、血をにじませていました。練習がはじまる前にはったガーゼは、靴下をおろしたときに、いっしょにとれてしまったのでしょう。
「なんでもないよ」
靴下をひっくりかえすと、ガーゼはやはり中にまきこまれていました。ひいたいすに座りこむのも半ばに、かばんの中に片手をつっこみ、テープをさぐりあてます。ほつれたガーゼをふたたび傷口にあてがい、ねじ切ったテープではりつけます。かわいた糸が傷をなでました。いすの脚がきしみ、音をたてました。
小さくも浅くもない傷です。なにも知らずふと目を落とした先に、さかれた肌とぱっくり開く傷口をみつけてしまったら、どうでしょう。だれだっておもわず顔をそむけてしまうはずです。
「なにかあったんですか」
アルテミスがそっとアフロディの顔をのぞきこみました。仮面のせいで顔色が見えませんが、もうしわけなさそうな心配そうな様子が、声からつたわってきます。
「おぼえてない」
冷たく言いはなちます。
「その、痛みませんか」
「しらないよ」
「医務室で一度みてもらったほうがいいと思うんです」
それこそ、傷の様子をうかがうようなしゃべりかたでした。アフロディはしびれをきらして、声をしぼりあげました。
「あまり気にしないでくれ」
ふたたび、アルテミスの右手がわななきました。
声はすぐかすれていきました。
「これぐらい、すぐになおるよ」
さいごのほうは、言葉なのか、のどをとおる息の音がしただけなのか、わからなくなるくらい弱い声でした。
傷のことにふれてほしかったのかどうかは、アフロディにもよくわかっていないようでした。痛みは、朝のできごとを思いかえすほど、あいまいになっていきました。
あの時いったいなにに気持ちをせかされていたのか、説明できるものでしょうか。
空色の髪がゆれます。アルテミスは正面からアフロディを見据えました。
「わかりました」
もう、おぼつかない様子はありません。まっ白な仮面の陰影に、そっと色がまざりました。
「はやく治してくださいね」
雪のような声色でした。
「わかってる」
アフロディが目を伏せました。肩にかかっていた髪が、そっと胸に落ちました。ガーゼに血がにじんでいきます。
ふたりの影はいつのまにか、蛍光灯のひかりでできた、腕の長さより短くうすいぼんやりとしたものにかわっていました。
アルテミスがそっととびらを開きました。廊下のあかりが部屋にさしこんでいます。
アフロディは息を止め、音だけを聞いていました。のびたひかりが髪へ、肩へ、かかります。
「いまきみがどんな顔をしているかみせてあげたい」
芯を持った声が、仮面にさえぎられくぐもることなく、部屋にさっと満ちました。
「またあした」
白い壁に言葉がきえていきます。それを追うようにドアのしまる音がしました。
しめった空気のかおりがします。さかれた足の声のないひめいが、アフロディの頭いっぱいにひびいています。
影は静かに床へ横たわっていました。ときどき、蛍光灯がちかっときえるのにあわせて、ぼやけたりあらわれたりしています。
影から目をはなし、ドアを見上げます。ドアノブの冷えた光沢の中で、自分そっくりの顔がなにか言いたげな目つきをしてうつっていました。
傷がしくしく痛みます。
その痛みは、空気や水よりもぐっとふかく、彼の胸につまりました。
窓からのぞいている黒い家の窓に、あかりがともりはじめます。つややかな夜の空にちらばる星たちが、せいいっぱいのひかりをはなっています。
彼の胸には怒りが熱く重く燃えていました。
今日のできごとぜんぶが毒となって、傷をとおり体中へ広がってゆくのがわかるのでした。
僕は戦っているのだと、口の中でつぶやきます。
それと同時に、僕はもう負けているのだとも、思わずにはいられませんでした。
視線をおとし、にじんだ影を見つめます。
うつくしい黒でした。影がもとからうつくしい黒色をしているのか、アフロディの影だからこそうつくしいのかは、わかりません。隠しごとをしていない、純粋な黒でした。
純粋なものにこそ、なにかが隠れていると疑いたくなるものです。
いすが音をたてました。アフロディは、ひざのきしむ音を聞きながら、ふらふら立ち上がりました。両足で、かたむきそうになった体をむりやりささえます。傷が痛み、足の泣き声がこぼれてきそうでした。
アフロディの右足と影の左足がはなれました。バランスをうしなった体がゆれました。しめった空気が、肺へすべりこみます。
息を止め、右足で影を強く踏みつけます。靴が弱弱しいぎゅっという音をたてました。傷の奥に、しびれるような痛みが走ります。
もう一度足を上げ、影を踏みにじります。靴底がぬるりと床をすべります。すぐに足をもちあげ、また踏みます。こもった音のあと、ねじられた靴がすれる感触とともに、痛みが足をつきぬけます。
『いまきみがどんな顔をしているかみせてあげたい』
アルテミスの声がよみがえりました。
「そんなもの」
こみ上げる熱い息に影がかすみました。
蛍光灯がまたたきます。表情のない黒が、つやのある白い床に溶けています。
「見えない」
力のなくなった右足がほてり、赤くなっていました。うつろな湿気が、額ににじんだ汗をふくらませ、髪の根元へしみこんでいきます。
痛みがきえていきました。わきかえる怒りも、熱をうしなっていきます。
夜のとばりは、たっぷりの暗闇を部屋の中にまで落としています。
>つづきはこちら
太陽のひかりは雲をつきやぶり、町をひろくてらしていました。
黒い服に身をつつんだ少年が、砂だらけの地面のまんなかで、足をとめました。両膝に手をつき、肩で息をします。みだれた金の髪が腕にからまります。胸の底からしぼりだされる空気が、あざだらけの体をきしませました。額やこめかみから流れる汗がぼたぼたと落ちて、砂の上にしみをつくっています。
突然、足音がひびきわたりました。短くはきだされた息が、止まります。
少年はとっさに身をひるがえしました。すべる足が、砂を低く舞い上げます。背後にせまっていた影が右腕をふりあげました。思わず身をよじると、こぶしが頬をかすめ、空をきりました。
視界がゆらぎました。バランスをくずし、背中から地面に倒れます。全身のあざが強く痛みました。
少年の目の前には、彼とおなじ顔をしたおなじ背丈の少年が、その金髪と白い服のすそを風になびかせながら、立っていました。かみしめたくちびるから、熱い息がこぼれています。
いきおいよくのばされた手が黒い服の胸ぐらをつかみ、倒れた体をひっぱりあげました。ほのおをたたえた目が、今にも息たえてしまいそうな相手をにらみつけています。
追いつめられた少年は目をつぶりました。かぼそい呼吸がかわいたのどからもれ、泣き声のような音をたてました。
砂ぼこりが吹きこみ、ふたりの髪が羽のようにひろがります。雲のうすい影が落ちました。汗のにおいが砂のにおいとまざり、鼻をつきました。眠りからさめていない町が、しんとたたずんでいます。
木の葉から朝つゆが落ちる音すら、聞こえそそうになったときです。
力なく下がっていた黒服の少年の右腕が、ぴくりとゆれました。気づかないほうがとうぜんというくらい、わずかなうごきでした。
その手はおそろしく時間をかけて持ち上げられました。腰の高さから胸の高さへ、胸の高さから肩の高さへ。音も風もともなわないうごきです。汗のしずくがひじへ流れ、ひとつぶだけ落ち、砂にしみこみました。
指が、やはりおそろしく時間をかけて、一本ずつのばされます。爪のしめった光沢がひろがります。
やがてそれは、彼のえり元をつかむ手へそえられました。
一部始終を見つめていた白服の少年の眉が、くもりました。しかしそのくもりは、一瞬のまばたきのあと、すぐにはれました。
胸ぐらをつかむ手へ力をこめます。もう片方の手をにぎりしめます。
その気配を感じたのか、黒い服の少年が、まつげをふるわせながら、うっすらと目を開きました。
こぶしがふりあげられます。太陽にかさなった手が、暗く染まっています。
もう彼には、顔をかばうための気力すらのこっていませんでした。なんとか開いているまぶたが、しびれてくるほどでした。
青い空がかがやいています。見えるものすべてがかすんでいきます。
ぼやける視界のまんなかに、腕がいきおいよく打ちおろされました。
―――――――――――――
午前の町にはじめじめした空気と音があふれていました。
灰色のビルのあいだから、低い空がのぞいています。規則ただしくならぶ信号機と電柱が、にぶく光るアスファルトを見下ろしています。眠そうな風が雲のにおいをはこんできました。
町は、ゆれる人の海にしずんでいました。ひろい流れでした。そのとなりには、車の列が、めざめるのをわすれたヘビのようにのびています。
人ごみをかきわけながら走る少年がいます。背にひろがりたゆたう金色の髪は、太陽にまけじとひらめき、道路をけるのにあわせてしゃらしゃらなりました。
交差点の反対側で、青信号が点滅しています。
人の波はたえません。もがけばもがくほど、体が押し戻されてしまいます。
ぶあつい人ごみをやっとの思いでぬけ、横断歩道へとびだした瞬間です。
ついに信号がかわりました。
靴の底がぎゅっと音をたて、足はなんとか止まりました。あわてて歩道へと飛びのきます。目と鼻の先を車がかすめていきました。思わず信号機を見上げます。口をついてでたのは、ながいためいきでした。
しけた空気に肌はしめり、ほてる頬やあごのあたりを汗が流れ落ちました。バスが目の前を横ぎります。ガスくさい風がのどをくすぐり、小さなせきがでました。
人々の肌が、強いひかりにさらされかがやいています。少年はやわらかい手の甲で汗をていねいにぬぐいました。はりついた髪の毛が耳のつけねにまとわりつきます。
信号が青にかわるのとおなじく、彼はかけだしました。
交差点にはもう人しかありませんでした。信号待ちをしている車のまわりにまで、波はひろがりました。道路の上で、おなじ色をした靴がはねる様子は、まるでボートから見たとび魚の群れのようでした。
アスファルトの上にひかれた白いラインが、たくさんの足の下で、じっと息をひそめ横たわっています。それはたしかに光っていました。そのくすんだ白色の内側にひめられたかがやきが、靴にふみつけられるたび、少しずつもれているのでした。
それは見ようとすればだれにでも見えるものです。少年も、そのまぶしさに気づいていました。
「僕にはまぶしくうつらない」
と、こころの中でつぶやきます。
「どんなひかりを見ても僕の目はくらまない」
走りながら、首を小さく振ります。
「まぶしいものか」
太陽はあきることなく地面をてらしています。ビルの下、電柱や街灯のあいだをあるく人々と、そこをかける少年の影を濃く重くしていきます。
彼は先ほどまで病院にいました。
うすい色をした空に、太陽が顔をだしたばかりのことです。
受付の人に見送られてロビーをでると、二枚のドアがやれやれといったように閉じました。
駐車場には、朝だというのに、たくさんの車が止まっていました。持ち主はみんなこの上の階で眠っているのです。
少年は、ベッドで眠っていたわけではありません。だれもめざめていない朝のうちに、こっそりここによったのです。
左右に目をおよがせ、車をながめます。黒や灰色や白の車がしんとだまったまま主人のかえりをまっています。はじのほうには救急車も見えます。出入り口のところには交番をひとまわり小さくしたような建物がありましたが、そこに車の出入りをみはる目はありませんでした。
奥行きのないしめり気が頬をなでています。
ふと、車の屋根のあたりをさまよっていた視線が、あるところで止まりました。
そこには大きな木がありました。みずみずしい葉が日のひかりにすかされ、その下にしげる芝生をさらに青く染めています。そばには二台の車が身をよせあうように止まっていました。
その影で、きらりとひるがえるように光るものがありました。
ハトやカラスが舞い上がったのかもしれないと空をあおいでも、鳥の姿は見あたりません。いそいであたりを見まわしてみましたが、駐車場にも芝生の上にも人はいません。芝はかおってきそうなほどの緑をたたえていましたが、それがともなっているひかりは、目にささるものではありません。
ガラスの破片かなにかが木の根元に落ちていて、それが偶然日のおかげで光ったのかもしれない。
そう考えて、彼は木をながめるのをやめました。そこでうごくものはけっきょく、ゆれる枝葉のほかにありませんでした。
駐車場をつっきって歩くと、入り口のまん前に、あざやかな赤色レンガでできた歩道が、景色をきりさくように横たわっていました。ねずみ色の町とはつりあわない、目をみはるような赤色です。そこからのびている横断歩道のラインは、ところどころすすけていて、アスファルトやガスのにおいとよくなじんでいました。その先にはやはりまっ赤な歩道がありましたが、こちらはとおいせいか、ややくすんで見えます。道に面したいくつかの店も、やはりどこかさびしい色をしていました。コンビニだけははなやかな彩りの看板をかかげていて、客のいない店内をてらすあかるい光が、歩道にもれていました。レジのとなりでは、まがった名札をつけた店員が、雑誌のページをせっせとめくっています。
向こう岸の信号機が、赤から青にかわりました。車道では車がふるえながら信号がかわるのをまっています。
ガードレールのあたりをさまよっていた彼の目が、にわかにみはられました。よく知る顔をみつけたのです。
「おはようございます」
向こうから歩いてきたその人にむかって、そっと頭を下げます。
するどくこちらをみつめていた緑の瞳に、あかりがともりました。
「おはよう」
ひたいの傷をなぞる赤い髪は、着ている黒い服のせいでしょうか、息をのむくらいあざやかな色をたたえ、ゆれています。
「散歩ですか、ヘラ先輩。まだ朝になったばかりなのに」
「ああ」
彼がこちらの歩道にたどりついたとき、点滅していた信号が思いだしたかのように赤くかわりました。車がうごきだし、エンジンの音がひびきます。
「朝はいいな」
ヘラは顔をほころばせました。
とうめいな空気が胸いっぱいにしみこみます。朝のうわずみをいっぱいふくんだ、きつくあまいにおいがする風がふいています。
「アフロディ、おまえも、朝が好きだったんだな」
はっきりした言いかたでした。アフロディからはずれた彼の視線が宙に舞いました。アフロディもその先を目で追いながら、ええそうですとうなずきました。
「先輩はこちらに用事があったんですね」
「そういうところだ」
「では、また学校で」
あいまいにうなずき、すいと体をそむけます。髪が、にげるようにひるがえります。
しかし、ヘラは返事もせず目をふせました。その首はかすかに横にふられたようでした。
「まだ早いだろ、練習には」
アフロディはそれ以上歩くことができませんでした。わずかにゆれたズボンのすそが、靴下をこすり、息をのむような音をたてました。
ヘラはわずかなあいだ口をかたくむすんでいました。
すぐにくちびるはゆるめられ、ほそい息がこぼれました。目をあわせなくても、瞳の奥であかりがゆらゆらゆれているのがわかります。それは歩道のすみにおかれた花や生垣をながめるためではなかったでしょう。アフロディも、じっと花と植木ばちのあたりを見ていました。
やがてヘラがゆるやかに歩きだしました。もうその目にくもりはありません。病院の入り口には目もくれず、歩道にしかれたレンガのかたさをひとつひとつたしかめるようにまっすぐ進んでいきます。アフロディは横目でその背をとらえていましたが、やがて思いなおしたように彼のあとを追いはじめました。
太陽のかがやきは、うすい雲をつきぬけて、イチョウの枝のあいだからあたたかく差し込んでいます。
彼らの歩みはながれる時間よりずっと遅いものでした。
「まぶしい朝だな」
と、ヘラが言います。
「まぶしい?」
「目ざめたばかりだからかもしれない」
ヘラが、ズボンのポケットであそばせていた右手を、自分の目のうえへかざしました。朝日が指のすきまからあふれ、苦しげにほそめられた瞳へ落ちています。
その後ろで、アフロディが顔をこわばらせたまま太陽をにらんでいました。目に熱い痛みがにじむことを、みじんもいとわない様子でした。
車のとおりはなく、聞こえるのは葉のこすれる音と自分たちの足音だけです。男の人が、郵便ポストから、封筒がつまったおおきなふくろをとりだしています。
ふたりの頭の中には、たくさんの記憶がわき上がっていました。過去からふきだす洪水にのまれまいとして、ふたりはだまりました。
思い出は行き先なくふくらみ、いまにもこころの中から現実へとこぼれ落ちてしまいそうです。
やがて道は交差点にさしかかりました。十字にまじわるアスファルトに、ねずみ色の横断歩道が傷のようにうかんでいました。二本の歩道は左右直角にひろがっていました。足元の赤レンガは、左手へ、病院の外壁をたどるようにつづいています。
横断歩道の手前で左に折れたとき、青信号をこえた自転車が後ろから一台だけやってきて、彼らに追いつき、追いこしていきました。ため息のような風がながれました。
アフロディはなにかをたちきるように言いました。
「僕はもう一生分のまちがいをおかしてしまった」
言うにつれ、のこっていた戸惑いがおさえこまれていきます。
ヘラが眉をひそめました。
「でも俺たちは気づけたじゃないか」
「まちがいに気づくだけで、ゆるされるなんて」
ただしい音色を持った声でした。
「ありえないことじゃないですか」
ですが、その強さとは裏腹に、足どりは見る見るうちに遅くなりました。
ふいに、しずかな声がしました。
「やめろ」
ヘラはどんどん足を速めていました。なにかを見つけようとするように、目をこらしています。
「俺たちはただしくなかったかもしれない。だが」
アフロディの赤い目がふるえます。
ヘラは足を進めながら言いました。
「すべてがまちがっていたかどうかは、だれにもわからないはずだ」
けっして強くはない声です。たしかな温度が、その裏に隠れていました。
アフロディはうつむきながら首を振ることしかできませんでした。開きかけたくちびるは、かたちにならない言葉に、かわかされていきました。
かつて神のアクアというものがありました。
それはただしくない力でした。
彼らそれを知ることとなりました。
知りながら、いまどうすればいいのか、わかっていなかったのです。
「それでも」
アフロディが、やっと口を開きました。
「それでも僕は、まちがったんだと思います」
声色に、さっきまでのつきはなすようないきおいはありません。
さびしい風とともに舞い上がったほこりが道路のほうへ運ばれていきます。閉じたシャッターを、張り紙がぱたぱたたたいています。
「もう二度とのぞきこめない、ふかいところに、ぜんぶを捨ててしまえればいいのに」
足を止めないよう、こころの中だけでつぶやいたはずでした。
「俺も、か」
目の前のその影が、すいと後ろへ流れていきました。ヘラは足を止めていました。おもわず、彼を追いこしたところで立ちどまります。
「俺たちもぜんぶまちがっていたと言うことか」
アフロディははっと息をのみました。顔から血の気がひいていきます。刃より冷たい目が、こちらをにらんでいるのがわかります。
つきさす視線からにげるようにかぶりを振ります。手がとどくほど近くにいる彼がどんな顔をしていたのか、もうたしかめることができませんでした。
コンクリートのにおいと、午前のひざしがもどってきます。
信号機がかわるのを待ちわびていた、車のうなり声がひびきわたります。先ほどまできえていた町のざわめきが、いきおいよくおしよせてきます。
アフロディは顔をゆがめました。わずかなあいだでしたが、自分の足が止まっていたことを、うとましく思わずにはいられないのでした。
一度だけ、ガスのにおいを胸いっぱいにすいこんで、はきだしました。むせるようなにおいが、自分が喧騒の中にもどってきたことをたしかめさせてくれるようでした。
ゆれる髪の感触が、あせる気持ちをかきたてます。はく息がかたちになるまえに、足がどんどん前へのばされます。
ころがるように角をまがり、やっとバス停のあるとおりへたどりついたときです。
バスはもう三つ向こうの信号機の前で、待ちかねたように角をまがっていきました。
アフロディはぜえぜえ息をつきながらそれをみおくりました。汗をすいこんだブラウスが、胸やせなかのあたりにべっとりくっついています。頬からあごへ流れたしずくが地面へぽたぽた落ち、ばらされた髪の毛は水につけたばかりの古いハケのように首をちくちくさしています。
バス停の横に、置物のようにならんでいた客人たちが、目のはしで彼を見ていました。
風がきえました。鼻をつく汗のにおいに、顔をしかめます。呼吸は荒いままです。都会の微熱とはべつの熱さが体をうすくつつんでいます。
のがれるように腕時計をにらみます。文字盤をみつめてから時間を確認できるまで、だいぶかかりました。
次のバスはもうすぐくるようです。
ですが、彼はまっていられませんでした。目の前をよこぎる人の影や、世界のはしからはしまでつづいていそうな車の列を見ることすら、わずらわしいのでした。
胸の中でくすぶる熱を、息といっしょにはきだします。肺からさいごの空気がおしだされたとき、彼ははじけるように走りだしました。背につきささる視線が、宙にばらけていきます。
いったいなにが彼をあせらせていたのでしょう。
全力で走っていても、車はおかまいなしに彼を追いこしていきます。いま彼とすれちがった車は、あの駐車場でねむっていたものでしょうか?
太陽もたかくのぼり、空の色がはっきりしてきました。流れる雲と電線が、いっぱいの窓にほんものよりみずみずしくうつっています。建物の中でうごめく人々は、まるで雲の海をおよいでいるようでした。人のにおいと町のにおいがまざり、風とともにぬるくよどみ、うずまきます。
小さな路地に気づいたのはそうした午前のはじまる瞬間のことでした。
ビルにかこまれ、さびしく建っている住宅のあいだに、暗くせまいすきまがありました。もし足が止まらなければ、そこに道があることには気づけなかったでしょう。呼吸をなんとかなだめると、タバコのけむりや汗のかおりがかすむくらい、いやなこもったにおいが鼻をつきました。歩く人はこのにおいをすわないために足を速めているのではないか、と思えるほどです。
腕をのばすよりも狭く向かいあった壁に、がっちりしめられた窓がぽつぽつとついています。いつ捨てられたのかわからないゴミが、無残に散らかされていました。少しそちらへ近づいて見ると、虫の羽音が、わーんとひびきました。
路地の入り口にはまっ黒なしめった泥が散っていました。だれかが出入りしたのでしょう、靴のあとがいくつかのこっています。
さびたフェンスをすかして、空が白くかがやいていました。
だれも知らない道があったことにおどろくひまもありません。
彼はすぐにその路地へ入りました。
地面はぬかるんでいてやわらかく、足跡ものこりません。ゴミをはきだしているビニールぶくろを越えるとき、いやなにおいがたちこめました。こんな泥沼のような地面にたおれるわけにはいきません。足を思い切りのばすたび、ぴちゃぴちゃはねる土がズボンのすそをぬらしました。
ゆく手を低いフェンスがさえぎっています。むりやりそれを乗りこえたとき、ちぎれた針金が足をひっかきました。彼の足は痛みには止まりませんでした。
町のざわめきがなくなりました。泥にまみれた足がしびれ、ひざが痛みはじめてきたころです。
ふと目の前で、なにかがゆれました。
こんどこそ鳥の影かと思いましたが、ちがいます。
羽が風をきる音ではなく、人の走る音が、すぐそばでしたのです。
音のするほうを見ると、すぐそこの左手にとつぜん、ほそい道の入り口がありました。
いえ、道と言うには、あまりにおざなりな道でした。コンクリートの壁と壁のあいだに、人が腕をまげてやっととおれるくらいのすきまがあるのです。パイプがはりめぐらされ、雨もふせげないひさしがとびだしている下に、色のはげたカンやビニールぶくろが、黒い地面へしずむようにして捨てられています。
その向こうに、きらきらかがやくものがありました。
それはたしかに人でした。
金色がかがやく波が、とおざかっていくその人の背に流れていました。
耳に聞こえていたわずかな音が、しんときえてなくなりました。あがっていた息も、破裂しそうになっていた心臓も、いきおいをなくしていきます。さっきまであふれていたゴミのにおいすらひいていきます。自分の体がひえるのが手にとるようにわかりました。
金色のひかりはずんずん小さくなり、また横道へとはいっていきます。
アフロディはぼうぜんと立ちつくしておりました。
だれもいない小さな路地を、自分とそっくりなだれかが走り去っていくところを見て、おどろかずにいられるものでしょうか。自分のまちがいやおぞましい思いを、思いがけず知ってしまったときのようです。
首の後ろがざわざわし、心臓がふたたびなりはじめます。
のどのかわきも、痛みのことも、苦しいこともわすれ、彼はふたたびかけだしました。
さいわい、あっと言うまに、表通りにでることができました。いきかう人の向こうに、バス停が見えます。いつもバスの中からながめていた駅です。
バスはすぐにきました。
中は見ただけで暑くなってしまいそうなバスへ、彼はなんのまよいもなくとびのりました。泥だらけの靴やズボンを見て、顔をゆがめる人はいません。
発射のゆれに身を任せながら、窓ごしに路地をながめます。
さっきのだれかが、そこまで自分をおいかけてきていないかと、道の入り口に目を走らせましたが、家のあいだにも人ごみの中にもそれらしき影はありません。歩道をゆく人たちは、その路地に気づいてさえいないようです。
まよいがみせた、まぼろしだったのでしょうか。
路地はどんどんとおざかっていきます。運転手が、向かい側からきたバスに手をあげています。
頭の中に、かろやかにひるがえる髪のうごきだけがのこっています。
その日の練習はすぐにおわりました。あたらしいカーテンのすきまにのぞくまるい夕日が、コップの影をテーブルへ落としています。
みんなが部室をでていく中、アフロディは、ひとりで部屋のすみに立っていました。靴をはきかようとしたときに、夕日にてらされた自分の影が目のはしにうつり、顔をそらせなくなったのです。まっ黒な自分が、くもりなくみがかれた白い壁にのび、こちらを見おろしています。
それを見ていると、にげるように去っていたあの後ろすがたを思いださずにはいられないのでした。
「あの」
鈴をならしたようなかすかな声がして、アフロディはいきおいよく振り向きました。扉の前に立つアルテミスの、荷物をもつ右手がふるえました。
部屋にふたりがのこったのは、偶然ではなかったでしょう。
アフロディも、目で「なにか用かい」とかたります。
「その」
仮面の向こうからもれる声が、雪どけよりもゆっくりつむがれます。
「なにかあったのなら、教えてください」
「なぜ?」
「その傷は、いつ、ついたんです」
彼の左手の人差し指がアフロディの足を指し示しました。うつくしい桃色の傷が、右足の外側、ひざの下からふくらはぎのまん中まではしっていました。傷はむきだしになって、血をにじませていました。練習がはじまる前にはったガーゼは、靴下をおろしたときに、いっしょにとれてしまったのでしょう。
「なんでもないよ」
靴下をひっくりかえすと、ガーゼはやはり中にまきこまれていました。ひいたいすに座りこむのも半ばに、かばんの中に片手をつっこみ、テープをさぐりあてます。ほつれたガーゼをふたたび傷口にあてがい、ねじ切ったテープではりつけます。かわいた糸が傷をなでました。いすの脚がきしみ、音をたてました。
小さくも浅くもない傷です。なにも知らずふと目を落とした先に、さかれた肌とぱっくり開く傷口をみつけてしまったら、どうでしょう。だれだっておもわず顔をそむけてしまうはずです。
「なにかあったんですか」
アルテミスがそっとアフロディの顔をのぞきこみました。仮面のせいで顔色が見えませんが、もうしわけなさそうな心配そうな様子が、声からつたわってきます。
「おぼえてない」
冷たく言いはなちます。
「その、痛みませんか」
「しらないよ」
「医務室で一度みてもらったほうがいいと思うんです」
それこそ、傷の様子をうかがうようなしゃべりかたでした。アフロディはしびれをきらして、声をしぼりあげました。
「あまり気にしないでくれ」
ふたたび、アルテミスの右手がわななきました。
声はすぐかすれていきました。
「これぐらい、すぐになおるよ」
さいごのほうは、言葉なのか、のどをとおる息の音がしただけなのか、わからなくなるくらい弱い声でした。
傷のことにふれてほしかったのかどうかは、アフロディにもよくわかっていないようでした。痛みは、朝のできごとを思いかえすほど、あいまいになっていきました。
あの時いったいなにに気持ちをせかされていたのか、説明できるものでしょうか。
空色の髪がゆれます。アルテミスは正面からアフロディを見据えました。
「わかりました」
もう、おぼつかない様子はありません。まっ白な仮面の陰影に、そっと色がまざりました。
「はやく治してくださいね」
雪のような声色でした。
「わかってる」
アフロディが目を伏せました。肩にかかっていた髪が、そっと胸に落ちました。ガーゼに血がにじんでいきます。
ふたりの影はいつのまにか、蛍光灯のひかりでできた、腕の長さより短くうすいぼんやりとしたものにかわっていました。
アルテミスがそっととびらを開きました。廊下のあかりが部屋にさしこんでいます。
アフロディは息を止め、音だけを聞いていました。のびたひかりが髪へ、肩へ、かかります。
「いまきみがどんな顔をしているかみせてあげたい」
芯を持った声が、仮面にさえぎられくぐもることなく、部屋にさっと満ちました。
「またあした」
白い壁に言葉がきえていきます。それを追うようにドアのしまる音がしました。
しめった空気のかおりがします。さかれた足の声のないひめいが、アフロディの頭いっぱいにひびいています。
影は静かに床へ横たわっていました。ときどき、蛍光灯がちかっときえるのにあわせて、ぼやけたりあらわれたりしています。
影から目をはなし、ドアを見上げます。ドアノブの冷えた光沢の中で、自分そっくりの顔がなにか言いたげな目つきをしてうつっていました。
傷がしくしく痛みます。
その痛みは、空気や水よりもぐっとふかく、彼の胸につまりました。
窓からのぞいている黒い家の窓に、あかりがともりはじめます。つややかな夜の空にちらばる星たちが、せいいっぱいのひかりをはなっています。
彼の胸には怒りが熱く重く燃えていました。
今日のできごとぜんぶが毒となって、傷をとおり体中へ広がってゆくのがわかるのでした。
僕は戦っているのだと、口の中でつぶやきます。
それと同時に、僕はもう負けているのだとも、思わずにはいられませんでした。
視線をおとし、にじんだ影を見つめます。
うつくしい黒でした。影がもとからうつくしい黒色をしているのか、アフロディの影だからこそうつくしいのかは、わかりません。隠しごとをしていない、純粋な黒でした。
純粋なものにこそ、なにかが隠れていると疑いたくなるものです。
いすが音をたてました。アフロディは、ひざのきしむ音を聞きながら、ふらふら立ち上がりました。両足で、かたむきそうになった体をむりやりささえます。傷が痛み、足の泣き声がこぼれてきそうでした。
アフロディの右足と影の左足がはなれました。バランスをうしなった体がゆれました。しめった空気が、肺へすべりこみます。
息を止め、右足で影を強く踏みつけます。靴が弱弱しいぎゅっという音をたてました。傷の奥に、しびれるような痛みが走ります。
もう一度足を上げ、影を踏みにじります。靴底がぬるりと床をすべります。すぐに足をもちあげ、また踏みます。こもった音のあと、ねじられた靴がすれる感触とともに、痛みが足をつきぬけます。
『いまきみがどんな顔をしているかみせてあげたい』
アルテミスの声がよみがえりました。
「そんなもの」
こみ上げる熱い息に影がかすみました。
蛍光灯がまたたきます。表情のない黒が、つやのある白い床に溶けています。
「見えない」
力のなくなった右足がほてり、赤くなっていました。うつろな湿気が、額ににじんだ汗をふくらませ、髪の根元へしみこんでいきます。
痛みがきえていきました。わきかえる怒りも、熱をうしなっていきます。
夜のとばりは、たっぷりの暗闇を部屋の中にまで落としています。
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