春の夏
ヘパイスがひたすら独白をくりかえす小説(文章)。CPであったりするものはもちろんありません。神のアクアがでてきた直後か雷門戦直前くらいのイメージかな?
雨のように降り注ぐ蝉の声。べっとりとした暑い空気、肌を焼くような日差し。なにもかもが、形を持たないなにもかもが、何かやわらかいとろんとした膜に包まれ存在させられているかのような、夏の思い出。
カーテンの閉じられた教室にも光は滝のように流れ込んだ。窓を閉じれば、音も風もなくまぶしさと熱だけが皮膚を焦がすのがわかる。濃い光。指と指をこすり合わせれば、束ねられた光がしゃらりと音を立てる。かがやく糸の一本一本が、水より美しく流れ出す。
にごった緑の瞳を凝らし、彼は太陽を見上げた。爆ぜるような光は彼の視界を真っ白に染め、彼はすぐに目をそらした。鈍い痛みにまぶたを閉じ、目尻をこする。ざわつく教室の中、閉められた窓と白いカーテンの間に、彼はひとりでいた。冷房から吐き出された風が髪の間をとおり、首に当たる。
これは夏であろうか。カーテンに閉じ込められたまま、ヘパイスはじっと両手の甲を見ていた。
今朝のことを思い返す。テレビも、カレンダーも、新聞も、四月のものだった。五分前に開いた携帯のカレンダーも、四月をしっかり指していた。
日付だけが四月に戻ってしまったのだろうか。自分だけがこの夏の日差しを浴びていて、まぶしさやぼてぼてした湿気を他の誰も感じていないのではないだろうか。震えながら冷たい風を送りつづけるエアコン。寒いなんていう声はどこからも聞えない。
「ボクはどうかしてしまったのだろうか」
始業をつげる鐘が鳴る中、机に腰掛け、彼は心の中でつぶやいた。
「この世界でボクの瞳にだけ、夏の映像が流れるよう、神様がなにか仕組んだのではなかろうか」
しかし、冷房とカーテンのおかげであろうか、部屋の空気はすこしも暑くないし、窓を閉じたせいだろう、蝉の声も聞えなくなっていた。教科書をうちわにして仰いでいる生徒もいない。ヘパイスも暑さを感じてはいなかったから、ほんの少しだけ外が暑そうに見えるだけだろう、と彼は考えた。
風鈴の音。
どこかの家の軒下に吊るされ、今まで忘れられていたものが、春の風にゆれたのだろうか。
匂いすらしそうな濃い緑の葉が、手が届くほどの頭上に雲のように広がっている。木漏れ日がこめかみをあたためている。わずかな風にゆれる枝葉の音と、消え入りそうなほど遠くで鳴きつづけている蝉の声。
彼はグラウンドに立っていた。白線の外、ベンチの隣に。風はグラウンドをすべるように流れていった。それは芝生と土のとろんとした匂いをつれてきた。
肺にたまりつづけてしまいそうな芝生の匂いと土の香り。スパイクの裏でつぶれているやわらかい芝のことを思う。彼らは折れないのだろうか。枯れることもないのだろうか。一面が茶色に枯れたグラウンドのことを想像する。きっとそれでもこのグラウンドには芝生の匂いが残りつづけているに違いない。
草の香りというのは、なぜ肺いっぱいに広がりつづけるのだろう。匂いというのは、不意に思い出した瞬間にそっと喉の奥をくすぐって、呼吸と共に肺の中へと戻っていく。
ぼんと音がして、ボールが飛ぶ。仲間たちが練習をしている。ボールの白がまぶしく光っていた。天に輝く太陽の光よりもやわらかくゆっくりと、中に秘めた熱を呼吸と共に伝えるように、ぴかぴかと光を吐き出している。それは残像のように伸び、グラウンドの上に白い弧をえがき、音もなく地面へと落ちた。
忘れたようにまばたきをした時、ボールは再び宙を舞った、誰かがボールを蹴る。ヘパイスは視線でそれを追った。みんなが走る音。バスが出される音。真っ白のユニフォームが翻る。
声。よく知っているはずのみんなの声が聞えないことに気づいた。耳を澄ましてもおそらく聞えないだろうことには、同時に気づいた。みんなの顔も、みんなの声も、ガラス越しよりももっともっとぼやけていて、わからない。蝉の声と風の音と、張り付くような空気の感触だけは、はっきりと感じられる。
太陽の光がまぶしすぎる。どれだけ目を細めても、どれだけ目を凝らしても、グラウンドの緑と空の青以外、すべてすべてが白に包まれてしまっている。
「そうか太陽はいつもこんなに輝いていたのだな」
彼は目を閉じた。熱いまぶた、光で透けた赤い色。今までに一度も見たことがないような赤色だった。
耳の上あたりに何かがぶつかった。彼は目をあけた。真っ先に目に入ったのは、踊るように翻った真っ白のカーテンだった。
「先生、ごめんなさい、熱があるみたいなんです」
イスから立ち上がり、彼はすぐにそう言った。
さっきぶつけられたのは、ノートの切れ端を小さくまるめたものだ。居眠りをはじめたヘパイスに、クラスメイトが投げたものだろう。それを右手に握ったまま、先生の言葉を聞くまもなく教室を飛び出し、すぐにドアを閉めた。紙を開いてみたが、中には何も書いていなかった。白地に灰色の線が規則正しく並んでいる。いったいノートのどのあたりをちぎったのだろうか。ドアの窓から教室の様子をそっとうかがったが、窓が大きく開かれていたこと以外、居眠りをする前ど変わったところはなかった。もちろん、紙くずを投げてきた誰かがこちらを覗いていることもなかった。
廊下の窓にはカーテンすらかかっていない。吹き込む風は甘く優しい。日は照っていたが、まぶしくもなく、熱くもなかった。桜は、新学期がはじまった直後とくらべると、だいぶ散ってしまっていた。弱い風にも花びらが舞う。風は冷たく、少し湿った額にぶつかると、ほんの少しだけ肌を冷やし、氷のように溶けていった。
保健室への道を歩いていると、一歩ごとに指や腕の関節が軋み痛んでいるのがわかった。太陽がまぶしく感じたのもおそらく熱のせいだ。肩の重さや膝の硬さ、チクチクする湿気、それらは不快であったが新鮮でもあった。耳の奥には風の音に似た低いうなりが響いている。目をつぶれば泣きはらした後のような熱さに驚く。目の奥のあたりから始まった頭痛は、廊下を歩く間、ゆっくりと時間をかけて後頭部に広がっていた。
まるで、鉄のようだな、振動や熱を伝えている途中のような……。と、彼は思った。
ベッドに横たわれば、呼吸すら苦しいことに気づく。頭が割れるような痛みもなく、指も手も我慢せず動かすことができたが、目を開けているのと息をするのは辛かった。細くゆっくりした呼吸を続ける。首が左右両側から押さえられているようで、空気が通るたびに息が詰まるのだった。
枕に頭を沈ませたときから、彼はぼんやりした意識のまま、自分が息をしていることを思った。
(そうか、ボクにはいま熱があって、体は病気だかウイルスだかと戦っているのだな)
まもなくやってきた首と肩の痛みに、彼の息はますます細くなった。壁とカーテンの白はどんな色より染みたし、蛍光灯の明かりさえ刺のように目を刺してくる。
白から目をそらすようにゆっくり寝返りを打ち、目を閉じた。
深い谷の底から引っ張られていくような眠りだった。
ヘパイスは公園にいた。
公園の白いベンチに腰掛け、遊具のない狭い公園を眺めている。風が吹くと砂埃が舞い上がる。空気は乾燥しているはずなのだが、体にはすこしも風の流れを感じない。目に写るものは水を通して見るようにゆがんでいた。
もしも町に透明な水が満ち溢れ、ビルも塔も沈んでしまったなら、世界はこう見えるのだろう。空からは形をもった光が差し込み、舞い上がった土はコマ送りをしたように静かに散らばる。木々はたゆたい、空気は泡となって浮かび、雨が降る日には遠い水面がいくつもの波紋によってゆがむ。
素敵な世界だと彼は笑った。水に満ち溢れた世界が、ではない。どんな形であれこの世界は美しい、ということだ。
ひんやりとしている空間だ。それでいて、光源から放たれている光が熱い目と乾いた喉を容赦なく焼いていた。空気の冷たさと光の暖かさ、宇宙まで続いていそうな真っ青の空。
初めて本当に蝉の声を聞いた。ゆがんだ視界とは裏腹に、よく通る綺麗な鳴き声であった。
公園では何人かの子供たちが遊んでいる。蝉もどこかにいるのだと思う。ベンチに座ったまま、彼は子供たちを見ていた。ゆがみ、顔も髪の色も判別がつかない子供たちの影。
「サッカーをしていなければいいな」
彼は心からそう願った。水で溢れたこの世界で、彼は本当にそう思った。
「サッカーが好きじゃない子供たちだといいな」
彼はまばたきをした。そこに何かの思いが隠されているのではないかというくらいゆっくりとしたまばたきだった。影がますます滲む。公園も、子供たちも、視界の端の木もビルも、青い空に溶けていく。
「ぼくはどうして不幸せになれようか」
枝がゆれる。向こうで光る太陽から、まるで飛沫のように輝きがこぼれる。
子供たちがいっせいに空を見上げた。そして、すぐに彼へと向き直った。ヘパイスも顔を上げ、子供たちを見た。サッカーボールがこちらに転がってきたのだった。砂の上を転がるボールと、その下で音を立てる砂、そして自分の足の先を順順に見る。そこには、上履きでもスパイクでもなく、褐色の自分の足があった。五本の指と丸い爪。そうか、自分ははだしだったのかと、彼は驚いたようだった。
「ボールとってください」
子供の声。両手を伸ばし、そっとボールを持ち上げる。
顔を上げたとき、そこはグラウンドだった。空の青さと太陽の光、つめたい空気だけは同じだった。
芝生の感触と、手にもったボールの皮の肌触りが、まるで一枚ゴム板を挟んだように曖昧だった。向かいにはゴールポスト。目を凝らしてみると、ユニフォーム姿の仲間たちもいた。
みな嬉しそうな顔をしている。にこにこ笑いながら、何やら話している。
「そうだこれはぼくらがはじめて勝ったときのぼくらだ」
両手に持ったボールを向こうへ投げる。ボールは気持ちよく飛んだ。地面に落ち、何回もバウンドし、向こうへ辿りついたようだった。
目を凝らす。凝らせば凝らすほど、景色は滲んでいった。音は引き、冷たさは枯れていく。ただ、光だけは堰を切ったように流れはじめた。すべてが白く輝き、グラウンドはぴかぴかに光り、空の青も褪せていく。爆発するように溢れた光に、目をつぶるまいと思ったのか、彼は大きく瞳を見開いた。
目がはっきりとさめたのは、そうやって本当にまぶたを開いたからだ。目の前でひるがえる白いカーテン、その隙間から白い壁が覗いている。目が開いた直後には輪郭がぼやけていた景色も、すぐに元通りの色彩を取り戻してくる。壁の汚れとカーテンのわずかな黄ばみに、彼はほっと息をついた。なんだか、その汚れがいとしく思えたのだった。
口の中が乾いている。嫌な味をするつばが歯の間から染み出しているようだった。ごくりとそれを飲み込んだ瞬間、からからになった喉がひび割れるように痛み、彼は思い切り表情をゆがませ、咳をした。
「せんせい」
カーテンの隙間から見えていた教師に声をかけ、水をもらう。透明なコップを持つと、幻覚でない冷たさが手のひら中に伝わった。喉の痛みも忘れ、あっというまに二、三杯の水を飲み干した。
ふとんから出て、ベッドの端に腰掛ける。体はひどく熱いのに、冬よりもひどく気味の悪い寒気が走った。投げ出された自分の足を見る。汗でぬるぬるした足の裏。無理やりに上履きへつまさきを突っ込み、彼はまた咳をした。膜のような痛みが喉に張り付いているようだった。
熱を測ることもなく、彼は保健室を後にした。
廊下を横切り、教室へとはもどらず、校舎の外に出る。屋外に設置された小さなベンチに座り、じっと自分の足を見つめた。
(不幸せなわけはないのだ)
彼は一人ごちた。
(勝てずにいた日々もとても好きだった。ぼくは勝てなくともしあわせであったし、勝ってもしあわせだった。このままこの一年が終わってしまうのならばそれもいい。だけれど彼らはどうだ? 彼らのしあわせのことは知らない。しかし、勝って喜ぶ彼らに、ぼくはなんと言えばいいのだろう? ぼくは、何をとめればいいのかわからない。逃げてしまうわけにはいかない。でもぼくはこのままではあらゆるものに立ち向かっているとは言えないじゃないか)
熱はまだ上がりつづけているようだった。触れるものすべてがちくちくと皮膚を刺す。体の重さも目の奥の熱さもおぞましい寒気も、すこしもよくなる気配がなかった。ほんのわずかでも体を動かすと、五体の節々が千切れそうに痛む。ああ、と、声を上げるところだった。誰の助けもいらないぞと、うなずくことはできるのだけれど。
自分の腹だか胸だかを抱えるようにして、五分か十分はベンチに座っていただろうか。空にうすくうかんでいた雲はどこかに流れていってしまった。飲み込んだ空気が乾いた喉をなでる。
彼は思った。痛みと乾きと寒さに慣れることは難しい。それには水も毛布も必要だ。だがそれがなくとも、この身ひとつあれば道を歩くことはできる。そしてこうも思った。この身があるということはなんてしあわせなことであろうと。かけられる言葉がなくとも、絵に描いたような愛がなくとも、人知れず痛み乾き寒さに凍えようとも、この身が歓喜に打ち震える未来を感じ取れなくとも、わたしは美しいと。
熱におかされたがゆえの独白である。しかしそれは彼の中にある真実であった。
彼は自分の血液が流れるのを感じ取った。五体が軋みながらも自分の身についてくるのを知った。まぶしい光に目を細めることが出来た。自分の体にある温度に驚くことが出来た。まるで飛ぶことを思い出したあのコアジサシのように、自分の体と存在がひたすら濃い影を落とし輝き始めるのを知ったのだ。
ベンチから立ち上がり、ふらつきながらも校舎へと歩き出す。
ちょうど授業が終わり、鐘が鳴るところで、彼は教室にたどりついた。
「帰るのかい?」
荷物をまとめてカバンへ押し込んでいたとき、そう声をかけられた。彼はうなずいて、「うん、また明日練習しよう」と笑った。
「そうかボクは今サッカーが嫌いなんだな」
彼はそう考えた。
「そしてその自分がそんなに嫌いじゃないんだ」
荷物はひどく重かった。蝉の声も、夏の日差しも、すべてどこかへ消えていった。
カーテンの閉じられた教室にも光は滝のように流れ込んだ。窓を閉じれば、音も風もなくまぶしさと熱だけが皮膚を焦がすのがわかる。濃い光。指と指をこすり合わせれば、束ねられた光がしゃらりと音を立てる。かがやく糸の一本一本が、水より美しく流れ出す。
にごった緑の瞳を凝らし、彼は太陽を見上げた。爆ぜるような光は彼の視界を真っ白に染め、彼はすぐに目をそらした。鈍い痛みにまぶたを閉じ、目尻をこする。ざわつく教室の中、閉められた窓と白いカーテンの間に、彼はひとりでいた。冷房から吐き出された風が髪の間をとおり、首に当たる。
これは夏であろうか。カーテンに閉じ込められたまま、ヘパイスはじっと両手の甲を見ていた。
今朝のことを思い返す。テレビも、カレンダーも、新聞も、四月のものだった。五分前に開いた携帯のカレンダーも、四月をしっかり指していた。
日付だけが四月に戻ってしまったのだろうか。自分だけがこの夏の日差しを浴びていて、まぶしさやぼてぼてした湿気を他の誰も感じていないのではないだろうか。震えながら冷たい風を送りつづけるエアコン。寒いなんていう声はどこからも聞えない。
「ボクはどうかしてしまったのだろうか」
始業をつげる鐘が鳴る中、机に腰掛け、彼は心の中でつぶやいた。
「この世界でボクの瞳にだけ、夏の映像が流れるよう、神様がなにか仕組んだのではなかろうか」
しかし、冷房とカーテンのおかげであろうか、部屋の空気はすこしも暑くないし、窓を閉じたせいだろう、蝉の声も聞えなくなっていた。教科書をうちわにして仰いでいる生徒もいない。ヘパイスも暑さを感じてはいなかったから、ほんの少しだけ外が暑そうに見えるだけだろう、と彼は考えた。
風鈴の音。
どこかの家の軒下に吊るされ、今まで忘れられていたものが、春の風にゆれたのだろうか。
匂いすらしそうな濃い緑の葉が、手が届くほどの頭上に雲のように広がっている。木漏れ日がこめかみをあたためている。わずかな風にゆれる枝葉の音と、消え入りそうなほど遠くで鳴きつづけている蝉の声。
彼はグラウンドに立っていた。白線の外、ベンチの隣に。風はグラウンドをすべるように流れていった。それは芝生と土のとろんとした匂いをつれてきた。
肺にたまりつづけてしまいそうな芝生の匂いと土の香り。スパイクの裏でつぶれているやわらかい芝のことを思う。彼らは折れないのだろうか。枯れることもないのだろうか。一面が茶色に枯れたグラウンドのことを想像する。きっとそれでもこのグラウンドには芝生の匂いが残りつづけているに違いない。
草の香りというのは、なぜ肺いっぱいに広がりつづけるのだろう。匂いというのは、不意に思い出した瞬間にそっと喉の奥をくすぐって、呼吸と共に肺の中へと戻っていく。
ぼんと音がして、ボールが飛ぶ。仲間たちが練習をしている。ボールの白がまぶしく光っていた。天に輝く太陽の光よりもやわらかくゆっくりと、中に秘めた熱を呼吸と共に伝えるように、ぴかぴかと光を吐き出している。それは残像のように伸び、グラウンドの上に白い弧をえがき、音もなく地面へと落ちた。
忘れたようにまばたきをした時、ボールは再び宙を舞った、誰かがボールを蹴る。ヘパイスは視線でそれを追った。みんなが走る音。バスが出される音。真っ白のユニフォームが翻る。
声。よく知っているはずのみんなの声が聞えないことに気づいた。耳を澄ましてもおそらく聞えないだろうことには、同時に気づいた。みんなの顔も、みんなの声も、ガラス越しよりももっともっとぼやけていて、わからない。蝉の声と風の音と、張り付くような空気の感触だけは、はっきりと感じられる。
太陽の光がまぶしすぎる。どれだけ目を細めても、どれだけ目を凝らしても、グラウンドの緑と空の青以外、すべてすべてが白に包まれてしまっている。
「そうか太陽はいつもこんなに輝いていたのだな」
彼は目を閉じた。熱いまぶた、光で透けた赤い色。今までに一度も見たことがないような赤色だった。
耳の上あたりに何かがぶつかった。彼は目をあけた。真っ先に目に入ったのは、踊るように翻った真っ白のカーテンだった。
「先生、ごめんなさい、熱があるみたいなんです」
イスから立ち上がり、彼はすぐにそう言った。
さっきぶつけられたのは、ノートの切れ端を小さくまるめたものだ。居眠りをはじめたヘパイスに、クラスメイトが投げたものだろう。それを右手に握ったまま、先生の言葉を聞くまもなく教室を飛び出し、すぐにドアを閉めた。紙を開いてみたが、中には何も書いていなかった。白地に灰色の線が規則正しく並んでいる。いったいノートのどのあたりをちぎったのだろうか。ドアの窓から教室の様子をそっとうかがったが、窓が大きく開かれていたこと以外、居眠りをする前ど変わったところはなかった。もちろん、紙くずを投げてきた誰かがこちらを覗いていることもなかった。
廊下の窓にはカーテンすらかかっていない。吹き込む風は甘く優しい。日は照っていたが、まぶしくもなく、熱くもなかった。桜は、新学期がはじまった直後とくらべると、だいぶ散ってしまっていた。弱い風にも花びらが舞う。風は冷たく、少し湿った額にぶつかると、ほんの少しだけ肌を冷やし、氷のように溶けていった。
保健室への道を歩いていると、一歩ごとに指や腕の関節が軋み痛んでいるのがわかった。太陽がまぶしく感じたのもおそらく熱のせいだ。肩の重さや膝の硬さ、チクチクする湿気、それらは不快であったが新鮮でもあった。耳の奥には風の音に似た低いうなりが響いている。目をつぶれば泣きはらした後のような熱さに驚く。目の奥のあたりから始まった頭痛は、廊下を歩く間、ゆっくりと時間をかけて後頭部に広がっていた。
まるで、鉄のようだな、振動や熱を伝えている途中のような……。と、彼は思った。
ベッドに横たわれば、呼吸すら苦しいことに気づく。頭が割れるような痛みもなく、指も手も我慢せず動かすことができたが、目を開けているのと息をするのは辛かった。細くゆっくりした呼吸を続ける。首が左右両側から押さえられているようで、空気が通るたびに息が詰まるのだった。
枕に頭を沈ませたときから、彼はぼんやりした意識のまま、自分が息をしていることを思った。
(そうか、ボクにはいま熱があって、体は病気だかウイルスだかと戦っているのだな)
まもなくやってきた首と肩の痛みに、彼の息はますます細くなった。壁とカーテンの白はどんな色より染みたし、蛍光灯の明かりさえ刺のように目を刺してくる。
白から目をそらすようにゆっくり寝返りを打ち、目を閉じた。
深い谷の底から引っ張られていくような眠りだった。
ヘパイスは公園にいた。
公園の白いベンチに腰掛け、遊具のない狭い公園を眺めている。風が吹くと砂埃が舞い上がる。空気は乾燥しているはずなのだが、体にはすこしも風の流れを感じない。目に写るものは水を通して見るようにゆがんでいた。
もしも町に透明な水が満ち溢れ、ビルも塔も沈んでしまったなら、世界はこう見えるのだろう。空からは形をもった光が差し込み、舞い上がった土はコマ送りをしたように静かに散らばる。木々はたゆたい、空気は泡となって浮かび、雨が降る日には遠い水面がいくつもの波紋によってゆがむ。
素敵な世界だと彼は笑った。水に満ち溢れた世界が、ではない。どんな形であれこの世界は美しい、ということだ。
ひんやりとしている空間だ。それでいて、光源から放たれている光が熱い目と乾いた喉を容赦なく焼いていた。空気の冷たさと光の暖かさ、宇宙まで続いていそうな真っ青の空。
初めて本当に蝉の声を聞いた。ゆがんだ視界とは裏腹に、よく通る綺麗な鳴き声であった。
公園では何人かの子供たちが遊んでいる。蝉もどこかにいるのだと思う。ベンチに座ったまま、彼は子供たちを見ていた。ゆがみ、顔も髪の色も判別がつかない子供たちの影。
「サッカーをしていなければいいな」
彼は心からそう願った。水で溢れたこの世界で、彼は本当にそう思った。
「サッカーが好きじゃない子供たちだといいな」
彼はまばたきをした。そこに何かの思いが隠されているのではないかというくらいゆっくりとしたまばたきだった。影がますます滲む。公園も、子供たちも、視界の端の木もビルも、青い空に溶けていく。
「ぼくはどうして不幸せになれようか」
枝がゆれる。向こうで光る太陽から、まるで飛沫のように輝きがこぼれる。
子供たちがいっせいに空を見上げた。そして、すぐに彼へと向き直った。ヘパイスも顔を上げ、子供たちを見た。サッカーボールがこちらに転がってきたのだった。砂の上を転がるボールと、その下で音を立てる砂、そして自分の足の先を順順に見る。そこには、上履きでもスパイクでもなく、褐色の自分の足があった。五本の指と丸い爪。そうか、自分ははだしだったのかと、彼は驚いたようだった。
「ボールとってください」
子供の声。両手を伸ばし、そっとボールを持ち上げる。
顔を上げたとき、そこはグラウンドだった。空の青さと太陽の光、つめたい空気だけは同じだった。
芝生の感触と、手にもったボールの皮の肌触りが、まるで一枚ゴム板を挟んだように曖昧だった。向かいにはゴールポスト。目を凝らしてみると、ユニフォーム姿の仲間たちもいた。
みな嬉しそうな顔をしている。にこにこ笑いながら、何やら話している。
「そうだこれはぼくらがはじめて勝ったときのぼくらだ」
両手に持ったボールを向こうへ投げる。ボールは気持ちよく飛んだ。地面に落ち、何回もバウンドし、向こうへ辿りついたようだった。
目を凝らす。凝らせば凝らすほど、景色は滲んでいった。音は引き、冷たさは枯れていく。ただ、光だけは堰を切ったように流れはじめた。すべてが白く輝き、グラウンドはぴかぴかに光り、空の青も褪せていく。爆発するように溢れた光に、目をつぶるまいと思ったのか、彼は大きく瞳を見開いた。
目がはっきりとさめたのは、そうやって本当にまぶたを開いたからだ。目の前でひるがえる白いカーテン、その隙間から白い壁が覗いている。目が開いた直後には輪郭がぼやけていた景色も、すぐに元通りの色彩を取り戻してくる。壁の汚れとカーテンのわずかな黄ばみに、彼はほっと息をついた。なんだか、その汚れがいとしく思えたのだった。
口の中が乾いている。嫌な味をするつばが歯の間から染み出しているようだった。ごくりとそれを飲み込んだ瞬間、からからになった喉がひび割れるように痛み、彼は思い切り表情をゆがませ、咳をした。
「せんせい」
カーテンの隙間から見えていた教師に声をかけ、水をもらう。透明なコップを持つと、幻覚でない冷たさが手のひら中に伝わった。喉の痛みも忘れ、あっというまに二、三杯の水を飲み干した。
ふとんから出て、ベッドの端に腰掛ける。体はひどく熱いのに、冬よりもひどく気味の悪い寒気が走った。投げ出された自分の足を見る。汗でぬるぬるした足の裏。無理やりに上履きへつまさきを突っ込み、彼はまた咳をした。膜のような痛みが喉に張り付いているようだった。
熱を測ることもなく、彼は保健室を後にした。
廊下を横切り、教室へとはもどらず、校舎の外に出る。屋外に設置された小さなベンチに座り、じっと自分の足を見つめた。
(不幸せなわけはないのだ)
彼は一人ごちた。
(勝てずにいた日々もとても好きだった。ぼくは勝てなくともしあわせであったし、勝ってもしあわせだった。このままこの一年が終わってしまうのならばそれもいい。だけれど彼らはどうだ? 彼らのしあわせのことは知らない。しかし、勝って喜ぶ彼らに、ぼくはなんと言えばいいのだろう? ぼくは、何をとめればいいのかわからない。逃げてしまうわけにはいかない。でもぼくはこのままではあらゆるものに立ち向かっているとは言えないじゃないか)
熱はまだ上がりつづけているようだった。触れるものすべてがちくちくと皮膚を刺す。体の重さも目の奥の熱さもおぞましい寒気も、すこしもよくなる気配がなかった。ほんのわずかでも体を動かすと、五体の節々が千切れそうに痛む。ああ、と、声を上げるところだった。誰の助けもいらないぞと、うなずくことはできるのだけれど。
自分の腹だか胸だかを抱えるようにして、五分か十分はベンチに座っていただろうか。空にうすくうかんでいた雲はどこかに流れていってしまった。飲み込んだ空気が乾いた喉をなでる。
彼は思った。痛みと乾きと寒さに慣れることは難しい。それには水も毛布も必要だ。だがそれがなくとも、この身ひとつあれば道を歩くことはできる。そしてこうも思った。この身があるということはなんてしあわせなことであろうと。かけられる言葉がなくとも、絵に描いたような愛がなくとも、人知れず痛み乾き寒さに凍えようとも、この身が歓喜に打ち震える未来を感じ取れなくとも、わたしは美しいと。
熱におかされたがゆえの独白である。しかしそれは彼の中にある真実であった。
彼は自分の血液が流れるのを感じ取った。五体が軋みながらも自分の身についてくるのを知った。まぶしい光に目を細めることが出来た。自分の体にある温度に驚くことが出来た。まるで飛ぶことを思い出したあのコアジサシのように、自分の体と存在がひたすら濃い影を落とし輝き始めるのを知ったのだ。
ベンチから立ち上がり、ふらつきながらも校舎へと歩き出す。
ちょうど授業が終わり、鐘が鳴るところで、彼は教室にたどりついた。
「帰るのかい?」
荷物をまとめてカバンへ押し込んでいたとき、そう声をかけられた。彼はうなずいて、「うん、また明日練習しよう」と笑った。
「そうかボクは今サッカーが嫌いなんだな」
彼はそう考えた。
「そしてその自分がそんなに嫌いじゃないんだ」
荷物はひどく重かった。蝉の声も、夏の日差しも、すべてどこかへ消えていった。
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